あの、わたしは小さい頃から食べるのが嫌いで嫌いで、そりゃもう親御さんには大変心配を掛けた子だったそうです。ご飯の時間になると「なんで人間はご飯を食べなきゃいけないの?」などと言う程で、稀にでも沢山のご飯を食べるとそれはもうこの上無き幸せじゃったそうな。
今思うと、ちょっと何かのネジが外れていたのかもしれません。
カレーやシチュー、ラーメン、牛タン等は「大好物」でしたし、逆に割と好き嫌いは少ない方だったと記憶しています。
ただ、好物だからと言って「食べたい」とか、そういう概念はありませんでした。
加えて、上記のような好物もですね、「カレーはカレー。美味いも不味いも無い。カレーは好き」と、そんな感じだったんですよ。「シチュー=不味いシチューは存在しない。シチュー好き」みたいな。
なので食に関しての執着が無いというか、食べたいという感情よりも食べないと死ぬから食う。といった様相だったのだと思います。
これがいつの日だったかなぁ。
発端としては20歳になる少し前だったか、高校を出て就職した先を辞め、飲食店にて働くことになったんです。そこで、今でも「あんちゃん」と呼べる5歳くらい年上の先輩に「一緒に店をやろう」って誘って貰ったんですよ。当時も食に関してはとんと無頓着なもんで、鯵と鰯の違いもブリとカンパチの違いも解らないような感じで、店を出してからは「賄いの材料を当てる」というような苦行も執った程でした。
わたしが20歳前後というと、それはもう過酷な日々で、こういう日銭稼ぎとは別に、当時の表現で言う「福祉みたいな」活動もあったので、一つの仕事だけではとてもやっていくことが困難であって、午前と夜とで違う飲食店で働きながら、合間に睡眠や活動を行うという訳のわからない生活をしている時期があったんです。
まぁ、このくだりの8割は余分なんですけど、この頃にですね、ちょっとしたマイ事変が起きまして。
新製品が出るよ、という触れ込みの元、店長以下従業員で試食をしていた時ですかねぇ。
「美味しい?」
「あ、美味しい」
「美味しいですね」
「うん美味しい」
美味しいという言語に統一されているわけではないのですが、この瞬間その場所が「美味しい」で埋め尽くされました。わたしは混乱したんです。「美味しいってなんだろう」と。
もう、傍から見ながら「オイシーオイシー言ってるこの人達はなんなんだろう」と思う程の美味しい。初めて自分の中で美味しいがゲシュタルト崩壊した日。帰りの自転車で「美味しいオイシイおいCおいしい」と考えつめた日。夜も「あれ美味しいの?」とか考えていたくらいです。
それからですかね。「美味しいとは何か」がわかったような気がして、食べ物を「好き」「嫌い」で仕分けせず「美味しい」か「美味しくない」かで仕分けするようになったのは。
すると、母親のご飯が美味しいという事に気付いたり、実は学生の頃食べていたおやつが美味しくなかったりと、色々なことに気付くんですよね。そうなると、「あの店は美味しいから行く」とか、行動や嗜好にも変化が出てくるんです。
うん。
少しだけ、人生が変わった瞬間だったのかもしれません。
少しだけ、人生が変わった瞬間だったのかもしれません。
あのゲシュタルトの崩壊から随分経ちますが、あれが無かったら今もっとつまらない食生活を送っていたかもしれない。そう思う反面、あの日、美味しいというものの真意が見えたからこそ、食い意地が生まれ、食に執着し、味の濃いものを求め、肥えてきたんだな。って。太った理由を考えていたらそんなこともあったなぁって思い出したので書きました。以上。
おなつ。
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