経て、本年もよろしくお願い致します。あっと言う間に終わった令和元年ですが、皆様にとってどんな一年になったでしょうか。わたしにとってはですね、どうなんでしょう。色々と挑戦したな、とか、これ頑張ったな、とか、あるんですけど、こう、ガッっと来たという程では無かったですね。
最近指摘を受けるのですが、「色々やり過ぎ」論が濃厚な気がします。「色々やり過ぎ」というのには2つ意味があるそうで、「色々」には「あれもこれも」と、「やり過ぎ」には「度が過ぎる」という意味だそうで、「あっちこっち手を出し過ぎ」と「あれもこれも度が過ぎる」という事でガッっと来ないんでしょうね。一個にしておけばいいのに。とかね。人生一度きりだから色々本気でやりたいじゃないですか。まぁいいや。今年はもう少し自分を大事にして生きて行きたいと思います。
一個にしておけば。というとなのですが、2019年11月にMBAで有名なグロービスの方から「100人カイギに出ませんか?」というお誘いを受け、「なんじゃそりゃ」と思ったものの参加してみたんですよ。その頃くらいか、同世代や先輩世代の方々のスピーチを聴いている時に「みんなまっしぐらだなぁ」なんて思ったんですよ。これが、わたしにとっては凄いことで。
仕事を一所懸命にやるのは当然だとして、それ以外も含めてみんな「これだ」というものがあって、それに打ち込んでいるんですよね。サラリーマンながらにパデルというスポーツを日本に知らしめる活動と(何故だったか)BBQを企画することに命を賭ける人、現在手に職が有りつつもフレスコボールに全身全霊を賭ける人、当然音楽に命を燃やす人や絵画に生涯を捧げる人もいるわけです。これが凄く羨ましいのです。
色々語弊が生まれそうですが、忌憚なく言うと「本職はさておき本気で楽しめる何かがあると良いよね」って思ったりします。わたしにはそれが無いのです。と書くと想像以上に語弊がありますが…一言で言うと、これという趣味が無いということでしょうか。その方がライトで良いですね。そうしましょう。
趣味って難しいんですよ。わたしは多趣味~って言われる方ですが、打ち込んでないんです。適当に料理を楽しみ、適当に本を読み、適当に勉強をして、適当にHIITやらランニングして、適当にファッションに拘ってみる。時にはボルダリングやるし、気が向いたらフレスコボールやるし、その気になればブログも書くけどTwitterだってやる。ドライブだって自転車だって好きだけど、それ以上に散歩も好きだし写真好きだし最近はギターだって弾く。裏千家中級も取らせて頂けたことも有り緑茶、紅茶、白茶、ルイボス、マテその他諸々のお茶にも精通したけど、全部「これだ」という程でも打ち込んでいるというレベルではないんだよなぁ。何かそれが寂しいんです。
毎度の事ながら長くなりましたがまだ中腹です。2019年を振り返ると「未熟な自分に気付いた」というか「これで良いと思っていた自分」が壊れた一年間だったように思います。
2020年、新たな年には「未だかつて無い何か」に出会えることを願いつつ(敢えて仕事にとは書きませんが、それは流儀なものでして)、本年からわたしの座右の銘を『明歴々露堂々』から『明珠在掌』に変更致します。若者たちにとっても必要な考えだと思いますが、中年というか今年末から初老になるわたしにとっても大事になる概念だと考えています。
「みょうじゅたなごころにあり」
祖母が裏千家茶道の先生で、弟子入りして学ばせて戴いた中で出会った禅の言葉の中でも、今自分にしっくりくるのはこれかなと思います。
自信の無かった20代~30代は明歴々露堂々。「良いんだよそのままで」。から、これからは「自分自身の可能性は自分自身が持っている(掌にある)」という事を掲げて生きていきます。昨年相模原営業所に行った際に一番言った事かもしれないんだけど、「出来る出来ないではなくて、どうやって実現させるか。不可能性よりも可能性を探そうよ」的な話。出来ないとかやりたく無いみたいな否定的な話よりも、どうやったら出来るのかと、前向きな姿勢で生きていくことの方がきっと可能性広がるでしょう。
思えば、わたしは20代の頃がそうでした。「お前には無理だよ」とか「それは役に立たないよ」とか散々言われて来たけど、出来たことって沢山あるんです。若かったから無理が出来たとも言えるし、親に感謝…という脛の問題もあるのですが、「無理」は出来た。「役に立たないよ」は役に立った。社会人になってからはそれがコンプレックスになる事もあったからこその明歴々露堂々。10年以上そう生きたからこそ、次は元に戻ろう、また可能性を信じよう。という感じでしょうかね。若いからできたではなく、中年でも出来る。です。
まぁね、アラサーからのアラフォーだの言いますが、いつまで経っても時代の最先端にいるのは今生きている自分なわけです。数年前の自分を甘いと思う事、十年前の自分を甘いと思う事もある。勝手に老婆心を持つのは勝手だけれども、過去がだめだったと否定する必要もないし、過去は凄かったと褒める必要も無いのですが、自分と向き合うことは大事と思います。40歳だから20歳が馬鹿だと思うとか、60歳だから40歳がガキに見えるとか、物理的に縮まらない誰かの何かに合わせることよりも、自分自身の成長と、未来にあるビジョンとの差をどう見るのかが大事なんじゃないかなーって思うのですよねぇ。だって60歳の目線で自分って見れないじゃないですか。20歳目線で見るとおっさんですし。
わたしは2012年~2015年までに会議に出した資料とか見ると今より頭が良さそうなんです。2019年、営業に見せた資料とか見ると、今のわたしが見ても理解に時間が掛かる。本当によく考えられていて、今のわたしではここまで分析も出来ないし、深く考えようともしないように思うんです。過去を褒める必要も無いと言いつつですが、何でかわからないのだけど、一昔前までの自分を超えられなくなってしまったのです。
これがきっと「色々やり過ぎ」の弊害なんだと思うのです。必死にやっていた事とそうでない事の差というのでしょうか。それが明確になったというのでしょうね。え、何この話。墓穴なんですけど。あぁ、まぁ、語弊ということで(時に。あぁ、まぁ、って凄い含蓄ある語間ですね。便利。)。今も必死ですが、そう見えないようにはしています。それにしても過去の資料は我ながら頭がおかしい。
やばい2時になっちゃう。まぁ、新年なので本音もちらつかせて締めましょう。そんなこんなしていた2019年、わたしにも部下が2人も増えました。彼らの成長と可能性を開花させること、延いては社員全ての明珠を開くことがわたしの使命であると気付きました。あとはわたし自身の問題ということです。わたし自身どうなりたいんでしょうね。人の事ばかり考えていて、わたしの事がわからなくなってしまったようです。使命は良いのですがわたしはどうなりたいのか、何をしたいのか。まっしぐらに生きていれば良いのか、それでいいのか、それはあんまりじゃないか、なのかどうなのか。向き合う必要があるかもなぁ残りの50年生きる上では。
って言った時にやっぱり文章を書くことが好きだって思うんですよ。上手いとか下手とかじゃなくて、趣味としてはね。多分もしかしたら一生文章を打って生きて行けるような気がする。素面の時とそうでない時とでの荒ぶれ方は違うけど、何だかんだ一番しょうもない部分の脳みそ使ってる。それが一番楽しいような気がする。全てが曖昧なんだけど。そんな新年、こんなおなつと夏島運輸をよろしくお願い致します(おざなり)。
おなつ。
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